LOGIN珠希と展示予定の場所を見たあと。氷室百貨店を出た頃には、時刻は既に十二時を回っていた。 三十分ほどで切り上げるつもりだったが、予定外に火野に話しかけられ、少し時間が押している。それでも雪臣はHIMURO本社へ直帰するつもりはなかった。 百貨店前のタクシー乗り場に並びながら、雪臣が口を開く。 「タマ。来週の土曜日だが」 「ん?」 「祖父から連絡があった。結婚祝いの席を設けたいと」 順番がきて、目の前に一台のタクシーが停車した。いつものようにユニバーサルデザインタクシーを手配したわけではない。回ってきたのは、狭いセダンタイプだった。 「あ、前に話していた祝賀……うん。土曜日は私、予定ないよ。楽しみにしています、と伝えてくれる?」 「分かった」 後部座席のドアが自動で開く。すると珠希が何も言わず先に乗り込み、車内の奥へ詰めた。 雪臣は一瞬だけ足を止めた。 これまで、たいてい『どうぞ』と上座を譲られてきたからだ。社長や氷室の長男という役割がある以上、何もおかしなことではない。ただそのたびに断って、相手を先に通すという短いやり取りが生まれた。 足が悪いからだ。 日常の端々で、ビジネスマナーよりも優先しなければならないことがある。ドア側でないと、乗り降りするのに苦労した。それを説明するのはもっと苦になった。 「…………」 珠希は、ただ当たり前のように、雪臣が過ごしやすい側を空けてくれた。 雪臣が座り、ドアが閉まる。 ――帰りに、シュー、買ってくるね。今日。 あのときと同じだった。大げさな親切ではない。けれど、こちらが気まずい思いをしないよう、さりげなく気を配ってくれる。そんな珠希のやさしさに触れるたび、胸が高鳴るのだ。雪臣は運転手に向かって、小さな声で行き先を告げた。 「代官坂の手前まで」 「はい、かしこまりました」 車が走り出すと、隣の珠希が「本社前じゃないの?」と首を傾げた。雪臣は何も答えられなかった。 ――休憩を挟んでから帰社する。 瀬原にそうメッセージを送ろうとするが、スマートフォンを持つ指が震え、何度も打
10月の連載予定日月~土曜日/21時37分(日本時間)頃/各1話ずつ日曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。花絵 ユウキ
9月30日(水)は筆者取材により休載致します。最新話(第四十八話)は10月1日(木)21時37分(日本時間)頃の公開予定です。
周年企画への参加を決めてから、三日後。 午後の打ち合わせを終えたという雪臣と瀬原が、デザイン部に顔を出していた。二人はデザイン部長の岸部とクリスマス用シリーズについて短く確認したあと、そのまま珠希の席へ近づいてきた。そして、瀬原が珠希へ一枚の資料を差し出した。 「珠希さん。周年記念の件ですが、来週、氷室百貨店の二階を見に行きませんか。催事で実際にHIMUROの展示スペースとして使う候補の場所です」 「えっ、私が、ですか?」 「はい。珠希さんに、ジュエリーのコンセプトに合わせて実際の空間でどう見せるべきか、照明の影響がどれほど出るか、ご意見をいただきたいと思っています。石や地金の扱いについて、デザイナーの意見は重要ですから」 たしかに、展示は見栄えだけでなく、繊細な素材を使ったものは、品質を守るため、扱いに注意が必要な場合がある。光源一つとっても、石の輝き方が変わって見える。それらを熟知しているのが、デザイナーだ。 実際に展示される品物を作っている人間として、催事場は見ておくべきなのだろう。 「分かりました。それでは、来週氷室百貨店へ見学に行きます」 「良かったです。当日は、私が同行いたしますね」 「――僕が行く」 不意に、雪臣が口を開いた。 「え?」 先程から瀬原の隣で黙って資料に目を落としていた雪臣が、顔を上げた。 「僕が同行する」 珠希は思わず瀬原を見た。 雪臣が周年企画に関わるのは当然だ。氷室百貨店の八十周年は、HIMUROにとっても大きな仕事なのだから。しかし、単なる一デザイナーである珠希が展示場所を見るだけなら、忙しい中で社長がわざわざ同行する必要はないはずだ。 「雪臣さん。同行なら私が都合をつけられますから、他の業務にあたってください」 「いや、僕の離席中、瀬原には、珠希さんの参加できる会議の日程調整を」 「日程調整? それには、時間はかかりませんから。同行もできますよ」 「……違う、環愛が。環愛の原型になったリングは、僕と珠希さんが一緒に着手したものだ。確かにまだ商品化が決まったわけではないが、周年企画で扱う可能性があるなら、珠希さんが初めて氷
十月になった。 会議室の隅に座った珠希は、落ち着かない様子であたりを見回した。 氷室百貨店の周年記念企画に向けた会議――。 開催は来年四月。小さな宝飾商から始まった氷室百貨店が、創業八十周年を迎える節目の大催事だ。テーブルには、各フロアの売場図面や過去の催事写真をまとめた資料が並んでいる。その中に置かれた珠希の『環愛』の企画書は、どこか薄く見えた。 瀬原に出席を求められたものの、HIMUROに入社してから珠希が主に担当してきたのは、雪臣とのマリッジリング制作だった。そのため、周年記念についてはほとんど何も知らない。 そわそわしていると、あとから入室した雪臣が、通りすがりに声をかけてきた。 「聞いているだけでいい」 「でも、参加するか決まる前に、会議へ同席してもいいの……?」 「参加するかどうかは、あとで」 小声でそう告げると、雪臣はそのまま奥へ進み、上座に腰を下ろした。 ほどなく各部署の担当者が揃い、会議が始まった。 照明が落ち、スクリーンに資料が映し出された。 周年記念は一日限りの式典ではなく、四月を中心に全館で展開される。各売場が、氷室百貨店のこれまでの歩みと、これからを顧客に伝える企画だという。 HIMUROはむやみに新作を増やさず、既存商品の展示や店頭演出を充実させる。数を追うのではなく、一点ごとの価値が伝わる売場を目指す方針が、参加者の間で改めて共有された。 これまで二人で作ってきたマリッジリング。その先に、百貨店全体へとつながる大きな仕事が広がっている光景が浮かんだ。 「続いて、周年企画の前後に予定されている競合催事の動向です」 瀬原の言葉とともに、画面が切り替わった。 大きく映し出された企業名に、珠希は思わず息をのんだ。 INUI Jewelry――。 珠希の目は、スライドの説明に釘付けになった。 十一月下旬、渋谷シカクイのメインアトリウムで、INUIを中心としたブライダル催事が計画されている。館内のドレス店や写真館も参加するらしい。 「そんな……いきなり十一月だなんて。あと二か月もないじゃないか」
シカクイ本社の会議室へ入る前に、直人はペットボトルの水を一口飲んだ。 午前中から会議が続いたせいか、声が少し掠れている。昔から長く話すとすぐに喉を痛めたが、この程度で商談を延期するつもりはなかった。 「直ちゃん、大丈夫?」 同行していたルリカが、心配そうに顔を覗き込んだ。 「俺を誰だと思ってる。任せろ」 秘書が用意した資料には、来場者の年齢層やブライダル関連の検索傾向がまとまっていた。内容は悪くない。ただ、急な商談だったこともあり、費用や人員の見積もりには詰めの甘さが残っている。それでも、この好機を逃すわけにはいかなかった。 話を聞いてもらうところまでこぎつけたのは、ルリカだ。 だが、会社を動かし、企画を成立させるのは自分だ。 「行くぞ」 直人はスーツの襟を直し、会議室の扉を開けた。 + + + 「御社のブライダルフェア企画には興味があります」 シカクイの催事担当者は、そう前置きした。 「ただ、渋谷店にはすでに複数のブライダルジュエリー店舗がございます。HIMURO MOTOMACHIさんも常設店を構えていますし……特定の一社を優遇することはできません」 「それは、はい、承知しています」 直人は催事担当から視線を外さなかった。 「催事区画や広告にかかる費用の一部も、参加企業にご負担いただくことにはなります。既存店舗との調整も必要ですね」 隣で、ルリカが膝の上で手を握ったのが見えた。 ここで難色を示せば、せっかく開いた扉は閉じる。しかし、言われるまま費用を引き受ければ、利益が消える。 直人は息をつき、資料の数字を見直した。 「INUIから限定商品と販売員を出します。広告費も、売場面積に応じた負担なら弊社で持ちますよ。ただ、御社には催事全体の告知と、各店舗への導線を用意していただきたい」 「複数ブランドを比較できる催事にする、ということですか」 「ええ。こちらも、他店を退かせる意図はありませんから」 いずれにしても、主導権を握るのはINUIだ。HIMUROに先んじて、フェアに合わせた準備を進められる。しか







